たった数百メートルの商店街は、その規模の割にいつもにぎわっている。
 朝は通勤していくサラリーマンの駅への近道として。お昼から夕方は商店街として。夜は一杯引っ掛けるための小さな繁華街として、若者が集うストリートミュージシャンの溜まり場として。
 深夜は行くあてのない人と、寝付けない鳥たちの憩いの場として。
 ストリートミュージシャンに対しては、騒音被害の名の下で反対・禁止を促すポスターが張り出されてもいる。しかし、そんなポスターの真下でギターの弦を弾き気持ちよさそうに歌い上げる若者に、人々は徐々にその価値を認めて財布を開き始めている。
 いくつもの顔を持つこの商店街は、どんな住民からも愛され、大事にされていた。

 肉屋がある。
 商店街がまだ百メートル前後しかない小規模なものだった時代からの古株だ。仕入先もずっと昔からのお付き合いをしている農家で、評判がいい。お得意様をしっかりと掴んで離さない、持久力と信頼のあるお店だ。
 しかし最近、もともと店主だった人物が腰を痛め、今はその息子が肉屋の営業に携わっている。腰痛をきっかけにしてあちこちに支障が出てきた元店主は、そろそろ仕事から離れようかと考えている。こんな不況下にあっても、それほどの損害を被らずに店は続いている。これといった贅沢はできずとも、慎ましく穏やかに暮らしていくには十分な世帯収入がある。まだ仕事に慣れない息子を心配して家内が始めた惣菜の売り上げも、上々であった。
 転機なのかもしれない、と元店主は腹膜炎を患った身体を床に横たえて思う。自分がいなくなっても世界はぐるぐると回っているのだと、その時はじめて、しみじみと思い至ってしまった。
 彼の目に、降り注ぐ光を一心に浴びててらてらと輝く常緑樹が映る。見慣れた狭い庭が、床に臥してしまうと何故か一層に色鮮やかに見えてしまう昼下がり。
 新しい風が、そんな彼の頬を撫で退っていった。
 夜七時半。店は、帰り掛けのOLにレバニラを売り、何か買って帰ってきてと言われたんです、と文句をたれる会社帰りのサラリーマンにホイコーローと、チンジャオロースをそれぞれ多めにおまけして、店仕舞いをした。息子がシャッターをガラガラと閉じ、その母親が包丁やまな板をきれいに洗って、更に殺菌消毒の為の処理をする。
 後には静かな、冷たい金属の壁が肉屋と商店街をきっちりと分け、昼間大人しいスナックや居酒屋が、活気を帯びてくるのであった。商店街のリズムは、日々滞りなく刻まれ続けている。

「ねーちゃん、熱燗一本ね」
 ぐったりと肩を落として、谷川拓也はいつものカウンター席に着き注文をする。春一番が吹いて春が来たなと思ったはいいが、それから数日後には寒気団が再び上陸し、久しぶりの底冷えする気温というものがここのところ続いている。卓也は迷うことなく熱燗を注文した。
「お疲れですね、谷川さん」
 お通しを彼の脇にちょこんと置きながら、微笑んで話しかけてきたのは、いつもカウンターの向こうで料理をするこの店の主人の奥さん(皆おかみ、と呼ぶ)だ。主にお通しや冷奴、熱燗など簡単だが注文の多いものを作っている。
 拓也とこの店とは長いもので、かれこれ就職した頃からの付き合いだ。なかなかどうして、あの頃から会社からまっすぐに家に帰る気になれなかったのだ。話を聞けば、同僚もそういった傾向を抱えている奴が多い。社会人の不思議。
 昔は憧れた行きつけの店というものが、今では自然とできあがってしまっている。バーなんて格好の良いものではないが、一種のファミリーを感じずにはいられない温かい空気と料理は、それだけで十分に拓也には価値があった。家に帰ってもどうせテレビを流し見、ビールを呷ることくらいしかできないのだ。二、三日に一度その店に寄ることで、拓也はその日一日のしこりや疲れを癒そうとしていたのだ。
 そんなわけでこの店の主人やおかみさんとは、そこそこの長い付き合いになる。つまらなさそうに主人の料理を運んでいる女の子は、一年くらい前からこの店で働いている。その前に働いていた子は確か結婚するとか何とかでやめてしまっていた。
「運動不足かな、最近疲れやすいんだ」
 拓也はため息を吐くように言った。おかみは足早にカウンターの向こうへと戻り、熱燗を準備していた。
「年かね」
「まだそんな年じゃないはずなんだけどな」
 慣れた手つきで温かくなった熱燗をつかみ、盆の上に二本ほど載せておかみがカウンターを出てくる。一本をサラリーマン二人組みの机へ、残りを拓也のいるカウンターへと置くと彼女はそのまま拓也の隣の席に腰を下ろした。客は拓也とその二人組みばかりの計三人で、珍しく空いていた。拓也はおかみにタバコ良いですかと聞いて、彼女が何も言わないうちからライターをカチカチ言わせた。
「いくつだっけ」
「二十九」
「あら」
 吸いなれたセブンスターの濃厚な霧が彼の肺を満たす。おかみは当たり前のように灰皿を拓也のすぐ脇に移動させた。さすがだと思った。勝手に手が動いてしまう、いわゆる仕事人の慣れというものである。
「意外と若いのね」
「もっとオッサンに見えましたか」
「悪いけど、少しね」
 おかみのポジションよりも更に奥にいる店の主人に、おやじさんさばの味噌煮一つ、と拓也が声を掛ける。よく聞きなれた声がアイヨ、と返事をした。
「結婚しないの、結婚」
 おかみが、そこに貰い物のお菓子あるから食べて良いよ、くらいに自然な口調と自然な表情で拓也に尋ねた。遠慮や気兼ねばかりで客と接していたら、客は客でしかない、が彼女のモットーである。人として接することが大切だと自負し、そういう態度で彼女はいつも接客に臨んでいる。
 そんな彼女の人柄や主人の作る料理が持つ、独特の温かさがこの店の一番の売りだった。
 この質問だって、このおかみでなければ拓也は無視していただろう。
「予定ないっす」
 どこかで聞いた台詞だ、と思いながら言われて数秒後に彼はうんざりとそう答えていた。そのせいか少し、棘のある風にそれが響いてしまったように思えた。
 悪意のないおかみの質問に対し、彼はその一言以上の答え方を何一つ持っていなかった。もしおかみがそれだけかという顔をしても、本当に、それに関しては予定がないのだからどうしようもない。
 しかし拓也がそろそろと隣の席を覗くと、思いの外納得したようなおかみがそこにはいた。
「まあ、女と違って男は割と婚期っていうのは融通きくからね。焦る必要はないでしょうけど」
 取り繕う風でもなく、全くその通りであると自分で頷きそうな勢いでおかみはそう続けた。彼女がそういうと、そうである気がした。焦る必要は全くない、という気が。
「あ……」
「ん?」
「お袋にも同じことを言われましたよ。去年の、盆に帰ったときに」
 あの台詞は、そういえばお袋も言っていたということに思い至って益々うんざりした。拓也には本当にそういう予定もなければ、これといった特定の相手もいなかったのだから。
「孫が見たいって」
「気の早い親御さんねぇ」
 可笑しそうにおかみが言う。それは、早く孫が見たいと言った母親に、拓也が向けた言葉そのままであった。

 肉屋がある。
 確か佐々木という爺さんが営んでいる店で、最近は息子がよく店番をしている。風のうわさ(噂というものは、どこから流出したのだというくらいに当人が思うよりも世間を流れているものだ)では、その爺さんが腰痛か何かで倒れたという話だった。おそらく誰でも知っていることだろう、自分に直接害や利益のないことには興味のない拓也までが何故か知っているくらいなのだから。
 さばの味噌煮と、おかみの世間話(もしかしたら、拓也の知りえる近所の噂のほとんどはそこのおかみ経由だったかもしれない、佐々木の爺さんのことも)をつまみに熱燗で身体を温めて店を出ると、商店街はすっかり昼間の喧騒を忘れてひっそりとしていた。
 まるで影のように、スーツを着た大人たちが歩いている。
 どいつもこいつも、足取りは必要以上に重たい。
 俺もそんな大人たちの一員か。
 そう思うと、拓也はせっかく温まった身体も一気にさめていくような心地がした。時期に似合わなく冷たい風が、落ちている宣伝広告の紙くずを撫ぜ踊らせている。二十九歳が似合わない二十九歳。早くももう、影のような大人になってしまったような気がした。
「……?」
 疲れ目だろうか。拓也の目に、見慣れない格好をした高校生くらいの女の子が映った。肉屋のシャッターの前で右を左を向いた目をして、体育座りをしている。つまらなさそうに、手は膝を抱えて両の手の爪をかつかつと弄んでいる。
 立ち止まってしまうと、『そんな大人たち』の一員から抜け出せたかのようで、心が少しばかり軽くなった。
 拓也がそうして彼女を凝視しているとまもなく、彼女がそれに気付いて立ち上がり、拓也に話しかけようとしてとどまった。自分があまりにも話しかけにくい雰囲気を纏っているのか、はたまた彼女が人違いに気付いたのか、さまざまな事を仮定して拓也は考える。ほんの少しの期待も抱いてはみるが、すぐに捨てざるを得ない。なんたって自分は、二十九歳に見えない二十九歳だ。
 少なくとも拓也の方は彼女に用などない。この時間の商店街に似つかわしくない人間を興味本位で眺めていただけである。しかし彼女は何か言いたげに、拓也が考えている最中も彼から目をそらせまいとしている。
 やがて思い切ったように、彼女が拓也に近づいてきて口を開いた。
「……あの、見えているんですか?」
 拓也が、はぁ? と吐き出しそうになるのをすんでで踏みとどまる。見えているとは一体どういうことなのだろうか。訝しげに彼女を見つめながら拓也は、はい、と答えた。
 彼を見上げる彼女は肌が白くて顔色はあまりよくないが、胴から伸びる四肢は健康的なものであった。長い髪を後ろでみつあみにして一まとめにしてある。薄手のシャツとオレンジ色のハーフパンツはまるでこれから体育の授業でもするかのような身軽さである。見ているこっちが少し、肌寒さを覚えそうなほどであった。
「本当に? ……驚いた。初めてかもしれない!」
 肉屋にいるのは息子であって娘ではなかったはずだ。年齢を考えるとあの爺さんにこの年頃の娘はちょっと考えにくい。拓也はため息を吐いた。疲れていて、寒くて、だから早く家に帰りたい。
「あの、失礼ですが、どちら様ですか? それに、初めてって、何が」
「へ。あ、えっと、何ていうか、ね」
 歯切れが悪くて、拓也は益々だるくなる。
 帰りたいなぁ。凝視とか、するんじゃなかった。
「私、死んでると思うんだ」
 悪い冗談だなぁ。
 と思ったら口に出していた。拓也はあわてて口を噤み、気まずそうに彼女に視線をあずめる。しかし彼女は何でもないようにけろっとして拓也を見返していた。口元に少し、笑みが浮かんでいる。
「冗談だと思うんだ、そーかそーか」
 口はそういって笑みを浮かべたまま、しかし眉は力なく下がってしまう。困ったような表情で、彼女は続けた。
「私も冗談だと思ったんだけど…… 最近、冗談じゃないことに気がついたのね。何ていうか、誰も私のこと見えてないことに気がついて、もしかしてと思ったの。声掛けても、みんな、気付かないんだもん、驚いちゃった」
 さして驚いた風もなく、けれど本当に驚いたんだ、と彼女は続けた。拓也はそんな彼女が本当に死んでいるとは思えなくて、彼女があれこれと話している途中で横槍を入れた。
「死んでるって、その、本当なのか」
「え? うん、間違いないと思う」
 そう言って彼女が手を差し出す。一般的に言う、握手の体勢だ。拓也も手を差し出して彼女に触れようとしてみた。しかし。
「え?」
「ほら、ね」
 彼女の手はまるでよくできた空間映像か何かのように、拓也の手を受け取ることが出来ずにその場に留まっている。拓也の手は、何にも触れることのないまま空を切った。彼女は確かにそこにいるのに、まるで空気のように存在していなかったのだ。
「どういう、ことだ?」
「要はその…… お化けになっちゃったんじゃないかなぁ」
 困った表情のままで彼女はそう言った。お化けになっちゃったんじゃないかなぁ。
「お化けとか、見たことあるんじゃない? 私、誰かに見つけてもらいたくてこの街の回り沢山歩き回ったんだけど、犬に吠えられることや猫に話しかけられることはあっても、人に気付かれること、なかったもん」
 楽しそうに、彼女はけらけら笑う。みんな言うほど霊感って言うの、そういうの無いよね。
「俺だって幽霊見たのは初めてだ」
「本当に? そりゃまたびっくりだぁ」
 そりゃこっちの台詞だ、と思いつつ拓也はそこでやっと現実を見る。道行く人が皆一様に、拓也を心配そうに見やりながら通り過ぎていたのだ。
「おい、おい! ちょっと待った、お前誰にも見つけてもらえなかったって言ったな!」
「そーだけど……」
「今もか?」
「多分……?」
「先に言え!」
 拓也はついて来いと彼女に吐き捨てて、その場を駆け出した。横道に逸れていつもとは違う道を行く。人々はそうやって急に駆け出した拓也を、益々哀れみと奇異な物を見てしまったという面白みでもって眺めていた。拓也はこの後、少しばかりこの商店街でも話題の人物と化してしまう。
 商店街はそんな光景も、夜の闇と共に静かに見下ろすだけだ。

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